男はロマン、女は…『旅は道づれガンダーラ』

女優・高峰秀子とその夫・ドッコイ松山善三井上靖らにほいほいとついて行ったアフガニスタンパキスタンの旅の旅行記。善三パートが7割、秀子パートが3割という感じで、大体交互に書いている。
夫の善三さんのほうが脚本家であり映画監督であるわけだから、文章もうまそうなものなのだけれど、実際は、女優業から退いてエッセイストを本業としている秀子さんの方がエッセイには一日の長がある。だから文章も格段に面白い。軽妙にして読者の興味をくすぐるつぼを心得ている。
これに対して善三さんは読者への親切なのか何なのか、ガンダーラ美術やらなにやらの解説に多くのページを割く。しかし、旅の感動というモノはそれを見聞きする人にはなかなか伝わらないもので、善三さんの文章もその例に漏れない。彼は感動やさんで、いろいろと感動しているという事はわかるのだが、その感動を共有する事はなかなか出来ない。
まあそれはどだい無理な話なので、ふたりの文章を読み比べながらその違いを楽しむ。一番の違いは、善三さんはロマンティストだということだ。バスに乗り合わせた(?)ハエに並ならぬ興味を寄せてみたり、旅先で出会う人々や仏像などに想いを馳せてみたり、とにかく男はロマンなのだ。
この夫婦は対照的な性格のように見えるけれど、とても仲がよろしい。この旅の頃で50代ということだが、それでこれだけ仲がよいのだから、それは素晴らしいことだと思う。おふたりとももう80代になったかなろうかというところだと思うが、今もお元気で活躍されている。もう海外に旅は出来ないかもしれないが、ふたりの楽しい暮らしに触れられる文章を綴り続けて欲しい。

J-WAVEで落語

おとといの深夜、J-WAVEを聞いていたら、「笑福亭福笑師匠」という言葉が耳に飛び込んできた。上方落語に詳しくない私は知らない名前だったけれど、東京のオシャレなラジオ局J-WAVE上方落語とはただ事ではない。番組はJ-WAVE25という番組で、別に落語の番組ではないようだ。
というわけで、番組では、東京で行われた「笑福亭福笑師匠」の模様を録音で放送。上方の爆笑王と紹介される。東京で爆笑王といえば、いまはやはり川柳川柳、ちょっと前なら現落語協会会長の三遊亭圓歌というところだが、そんな自由奔放な芸風ということだろうか。
最初は古典の「ちりとてちん」。「は?」と思ったが、江戸落語でいう「酢豆腐」であるらしい。確かに破天荒で勢いがある語り口、江戸落語にはない力強さ。落語をラジオやCDで聞くと、声に出して笑うということは余りないが、今回ばかりは笑ってしまった。きっと生で見たら何倍も面白いんだろうなぁ… と思わせるキャラクターだ。
そしてもうひとつ新作でたしか「チャンチキおけさ」というもの。これもかなり爆笑もの、バカバカしい落語というのはとにかく楽しい。新作だけに古典よりもさらに自由だし、勢いも増す。個人的にはこの2つだけを比べると古典のほうが面白かったような気がしたが、どちらも面白い。

偶然、聞くことが出来た落語の放送。なんだか得した気分になった。
笑福亭福笑師匠は自分では大阪でも余り売れていないと言っていたが、それなりに評価は高いらしい。確かに三枝やらなんやらの大物と比べるとマイナーなのかもしれないが、爆笑王とはそういうものだ。落語界の爆笑王は基本的にはアウトローで大物になれないのだ。
そんな定説を覆して圓歌は会長なんてものになってしまったが、やっぱりあまり似合わない。

千字寄席「酢豆腐」のあらすじ
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/08/post_8efa.html

ものから映画を見る『映画の昭和雑貨店』

川本三郎というひとはとても面白く、とても変わった人だ。本当にどうでもいいことにとことんこだわり、それで面白い本を書いてしまう。この本もその例に漏れず、懐かしい“モノ”から映画を見て行く。これはもともとは雑誌サライの連載で、単行本も全部で5冊。よくもまあネタが尽きないものだと思う。
この完結編で取り上げられるのは「テニス」や「スケートイ」といったスポーツがあれば、「麻雀」なんてのもあり、「カメラ」とか「コカ・コーラ」なんてのもある。私は先日上の松坂屋に行ったばかりだったので「エレベータ」のところをとても興味深く読んだ。
この本を読んで、ここに登場する映画を見ようと思ってもなかなか簡単には見れないのが現実ではあるけれど、昔の日本映画を見るときに、モノに注目してみると、また面白い見方が出来るのかもしれないと思った。

タイカレー@京橋


フィルムセンターの帰りに何年か前に一度行ったことのあるタイ料理屋「ワンタイ」に行く。頼んだのはグリーンカレーとえびのカレー炒めと焼きビーフン。グリーンカレーはさらっとしてさっぱりしているのに意外と辛い。
一応カレーメインなので、カレーらしいカレーを先に書いてみたが、なんと言ってもうまかったのはえびのカレー炒め

色は赤いが、味は意外にグリーンカレーっぽく、ココナッツ・ミルクと香草の香り、さらにナッツのコクがガツンとくる。えびもぷりっとしていてなかなかいける。このソースはグリーンカレーよりも明らかにおいしくて、ご飯にもとてもあう。とろりとしているところも日本人好みなのかもしれない。
とにかくこの一皿に大満足。メニューがたくさんあるから、他にもおいしいものがあるんだろうなあーと思いつつ、あっという間に食べ終わったこともあり、隣のサラリーマンがやけに盛り上がっていてうるさかったのもあり、いそいそと席を立った。
http://www.thai-square.com/restaurant/shoukai/shokai_009.htm

日本橋うさぎやのどら焼


最近のはまり物です。
日本橋うさぎやのどら焼。かわは口あたりはもちっとしているのにかむとふわふわ、餡はつぶがしっかりとしたつぶ餡で甘さ控えめ。餡のおいしさもさることながら、なんと言っても蜂蜜の香りがするかわが絶品です。価格は1つ183円と少々お高め。
うさぎやは上野と阿佐ヶ谷にもあります。元祖は上野で大正2年創業とのこと。日本橋はその上野の初代の弟さんが始めた店で、阿佐ヶ谷は上野の初代のお孫さんが始めた店だそうで、支店ではないようです。先日上野のうさぎやにも行き(相当はまっている…)、食べてみましたが、個人的には日本橋のほうが好みでした。上野のほうが餡が柔らかめな感じで、ほのかに暖かかったです。
今度はぜひ阿佐ヶ谷に。

 …

すっかりサボりました。
気を取り直して、適当にちょぼちょぼ書いて行こうと思います。

書く事はいろいろある気はしますが、今日のところは、
この本を。

笑芸人 (Vol.6(2002春号))

笑芸人 (Vol.6(2002春号))

笑芸人のこの号は、志ん朝さんの追悼特集です。宮藤官九郎高田文夫の対談なんていうおもしろいものものっておりますが、それはさておき志ん朝さんです。
私は志ん朝さんの落語を生で聴いたことがありません。真に残念です。
後悔先に立たず。そんな後悔を2度と味あわないためには、足しげく寄席に行くしかありませんね。貧乏で木戸銭を出すのもひと苦労ですが、やっぱりたまにはいかないとねぇー
今ぜひ聞きたいのは小三冶かなー

機械という他者との対決『大いなる天上の河』

グレゴリイ・ベンフォードによる外宇宙を舞台にしたSF作品。場所は明らかではないが、人間と機械が対立する世界、人間は機械の勢力に圧され、根拠地を破壊され、さすらうことを運命づけられるようになってしまった。その集団の中のひとりキリーンが語り手となって人間の運命を描く。
この作品は「夜の大海の中で」「星々の海を越えて」のシリーズの第3弾ということになっているが、時代も場所もまったく違うところで展開される物語だ。共通するのは生物と機械の対立という大枠だけ。しかし、この大枠こそがこの物語でもっとも重要な点であることは明らかだ。それは、多くのSFが予言しているような機械が意識を持つことで人間に反逆するという物語ではなく、機械と人間がそもそもふたつの種族でしかないのではないかという可能性だ。人間の視点から見れば機械は人間が作ったものであり、人間を模倣したものでしかないが、それはもしかしたら有機生命から無機生命へという進化のひとつの形態でしかないのかもしれないという可能性もある。こんなことを欠いてもまったく説得力はないが、ベンフォードの精緻な描写にはそれを説得する力がある。
それは、この物語(「夜の大海の中で」も含めて)に登場する人間はみな少なからず機械化されているのだ。この「大いなる天上の河」に登場する人々も常に装具をはめ、頭にはソケットが挿入され、神経回路の一部はコンピュータによって制御されているようだ。そこでは人間と機械の境界は、この人々が考えるほどには明確ではなくなっている。人々は機械を敵視し、機械をまったく理解できないものと捉えているが、自分もまた部分的には機械であるのだ。私たちの目から見れば、この人々は人間よりもむしろ機械に近いのかもしれないと思うことすらある。ベンフォードはそのような曖昧さを作品に込めることで私たちに考えさせる。
そして、これは単純な「他者」の物語の繰り返しでもある。機械という他者と対決する人間の物語、戦いは常に「他者」との間で起きる。そして「われわれ」と「他者」との境界は意外に脆いもので、明確ではないものだ。そのような「他者」どのように対処するのか、それはシェイクスピアの時代から文学が果てしなくわれわれに投げかけてきた疑問だ。その相手が原住民であっても、機械であっても、エイリアンであっても基本的には同じ疑問なのだ。