『映画は死んだ』 内田樹・松下正己著 いなほ書房 2003年(新版:オリジナルは1999年)

新版 映画は死んだ―世界のすべての眺めを夢見て図書館で借りる

内田樹さんの専門はフランス思想らしいが、私は思想系の本は読んだことがない。読んだのは『映画の構造分析』と『ためらいの倫理学』。『映画の構造分析』はジジェクがやっていることをよりわかりやすくやり、よりためにならなくなっているのがとてもいいし、『ためらいの倫理学』もなんだかいいことが書いてあったような気がする。
他の本の話はともかく、この本の『映画は死んだ』という題名を見て、(「映画」が「死んだ」何度も繰り返された言説がタイトルになっているということで)「またか」という気分になってなかなか気が進まなかったのだけれど、まえがきがのできが秀逸でついつい引き込まれて読んでしまった。
なかなか本題に入れないけれど、私は前書きというモノがすごく好きで、前書きが面白い本はついつい読んでしまう。前書きの名作中の名作(迷作?)といえば北杜夫の『さびしい王様』、この本の前書きはともかくも破天荒で面白い。百聞は一見にしかずというわけで、ブックオフに行けばあるからちょっと覗いてみて欲しいのだけれど、その前書きを読めば誰しもググッと本に引き込まれてしまうはずだ。

エー、前書きの話はともかく、『映画は死んだ』の話だが、この本が前書きで掲げるのは「映画についての批評は可能か?」という疑問だ。今あるいわゆる評論とか批評とかいうモノが厳密な意味ではちっとも批評になっていないということで、それは私も同感なのだが、批評というモノがいったい何なのか私には結局よくわからなかった。だからこの本が果たして批評として成立しているか否かということは判断のしようがないのだけれど、この本自体の定義によれば、自分が批評しているということ自体に対して「身をよじるようにして恥じ入る」という身振りこそが重要なのということらしい。
わたしも映画についていろいろと描くときにいつも思うのだが、映画について何かを書こうとするとどうしても「自分」について書くことになってしまう。それは映画というモノがフィルムとしてそこにあるだけで存在しているだけではなく、見ることによって始めて成立する観客に依存したものだからだと思うのだ。つまり私が見なければ映画は存在しない。あなたが見なければ映画は存在しない。そして私が見た映画とあなたが見た映画は違う。そのことをまず考えないと、映画については何もかくことが出来ないのだ。
だから、批評というモノがある程度客観的なもの、「映画の科学」のごときものであるとしたら、映画批評などというモノは不可能だということになってしまう。
それを前提とした上で内田樹さんは「身をよじるようにして恥じ入る」ということを求めているのだと思うが、だからこそ、この本に時々登場する「〜のように見える」という記述に私は違和感を覚えてしまう。そのように見えた内田さんの見た映画と私の見た映画は違うのだから。
そう考えると、松下正己さんのいくつもの映画から同じような意味を表象すると考えられるシーンをあげるやり方のほうが「批評的」であるように思える。文章や内容の面では松下さんのものより内田さんのものに共感を覚えるのだけれど、こと「批評足りえるか」という点に限って言えば、松下さんのほうに軍配が上がったといえるのではないかと思う。

でもやっぱり面白かったのは内田さんのパートの『エイリアン』やリュック・ベッソンの話だ。ひとつ例を挙げるなら、『エイリアン』の話で紹介されたデルフィの「階層分化→分業→ジェンダー→セックス」という転倒などには目を見開かされる思いだった。
この本は(『映画の構造分析』のように)親切な本ではないけれど、映画にまつわる知的な「遊び」としては非常に面白い本だと思う。
今後も内田樹さんの映画に関する本に期待したい。
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2/16の「ほぼ日刊 日々是映画」
フランソワ・ヴェベール監督『奇人たちの晩餐会
http://cinema-today.net/0502/16p.html