『溝口健二の世界』 佐藤忠男著 筑摩書房 1982年

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溝口健二の世界佐藤忠男が日本映画の巨匠、溝口健二について書いた評伝。1章から10章までは時系列を追って、溝口の生涯と作品について書き、最後の3章で総論的な批評を書いている。溝口の人生がどのように作品の創作に影響を及ぼしたかという分析が精査で面白い。そして、溝口の作品の中でも駄作とされる作品も切り捨てることはせず、見所を見つけようとする姿勢にも感心する。
まず、私は溝口という人物についてほとんど何も知らなかったので、溝口の伝記的な記述の部分を非常に面白く読むことが出来た。姉の寿々が松平子爵という家族の妾になって、溝口も財政的な援助を受けていたという話や、小学校しか出ていないという話は面白い。そして、佐藤忠男はそのような溝口の育った環境をことごとく、彼の作品に結び付けて考える。松平子爵が溝口の作品の情けない男たちのモデルになったとか、小学校しか出ていないというコンプレックス(とは書いてなかったと思うが)が尋常でない努力と、新規なものを好む傾向を生んだとか言うように、つなげて行くのだ。
その実人生と作品とをつなげて行く書き方は、この本の時系列的な記述の部分全体にわたっている。戦争の影響で作品がこのような影響を受けたとか、戦後の女性の地位の向上がとか、次々と指摘されていくのだ。読んでいると確かに、なるほどねと思うのだが、しかしそれはあくまで推測に過ぎない(もちろん推測するしかないことなのだが)。
そこで私が問題だと思うのだ、それが正しいにしろ間違っているにしろ、溝口健二自身の言葉をもとに出された結論というのが非常に大きな力を持ってしまうということだ。私は映画というのは制作者の手を離れたらもう観客のものであり、制作者の意図がどうであろうと関係ないと思うのだが、しかしやはり制作者の意図というのを聞いてしまうと、そのように映画を見なくてはならない気になってしまう。しかし、映画はひとりで作るものではないし、制作者の意図どおりに作品が作られるわけでもないし、観る人によって見方は違うのだ。しかし、制作者(特に監督)の言葉はそのような自由な見方を制限してしまう。
この本を読む限りでは、溝口健二自身はそれほど自作について多くを語っているわけではないと思うのだが、この本の著者のほうが溝口の言葉からいろいろなことを推論して、言葉と作品を結びつける。その言葉は確かに溝口自身が発した言葉だから、それはやはり作品の見方に何らかの力を持って持ってしまう。しかも、佐藤忠男自身がすでに大御所だから、その影響力はさらに強い。
別にそれが悪いというわけではないのだが、そのようなひとつの映画の見方に過ぎないものに縛られるというのは凄くもったいないし、そのようにして観客を縛るような記述がありうるというのは凄く怖いということだ。読む側が、かかれたものというのがあくまでも(たとえそれが監督自身が詳細に自作について解説したものであっても)私見に過ぎず、それによって自分の映画の見方を縛る必要はないということを認識しておくべきだということだ。
もちろんこの本は、溝口の作品を違う角度から見る様々な方法を示唆してくれる。そのような意味では非常にすばらしい本だし、私は溝口の映画を見たときの参考にしようと思う。そして、この本を読まずに溝口健二について語るというのは難しいとまで思う。それでもやはりどこかで反論したいとも思うのだ。
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3/26の「ほぼ日刊 日々是映画」
溝口健二監督『武蔵野夫人』
出演:田中絹代森雅之轟夕起子
http://www.cinema-today.net/0503/26p.html

3/25の「日本名画図鑑」
新藤兼人監督『ある映画監督の生涯』
映画監督溝口健二の生涯を田中絹代依田義賢らへのインタビューによって明らかにしたドキュメンタリー。
http://www.cinema-today.net/magazine/meiga.html