『落語三百年 江戸の巻』 小島貞二著 毎日新聞社 1979年

*オリジナルは1966年
古本屋で購入
現代に通じる落語文化が興ったとされる江戸は天保から昭和までの落語の歴史を、代表的な演目によって綴った3巻本の一冊目。「明治・大正の巻」「昭和の巻」と続く。この江戸の巻では天保年間の寄席に立ち寄ったというイメージで話が展開され、三笑亭可楽徳川家斉の前で演じたという「将棋の殿様」などの話が収録され、小噺やいわゆる色物の噺も載っている。
江戸時代に実際に話された噺の記録(速記)などというものはほとんど残っていないから、江戸時代の話といっても実際に収録されているのは大正や昭和に演じられたものばかりである。しかし、それが江戸時代から話されてきた噺だということは間違いがなく、江戸と上方との交流の中でどのように変化してきたのかということも解説してあるから江戸の雰囲気というのはある程度つかめる。
古典落語というのは古典であるがゆえに常に現代性というものが問われる運命にあるわけだが、この本のようにルーツを探って行くことによってその意味を見直すことも出来るのかもしれないと思う。この本に載っている話には現代もなじみがあるものというのは少ないと思うが、それは古典というものもまた変化しているということなのではないだろうか。古典と言ってもその中で話される噺というのは変化して行くし、話され方もまた変わって行く。古典古典といいながら、それは常に変化して行く、それが古典落語のダイナミズムなのだろう。
そして、それにはこの落語というものが基本的に口承文化であるということがいえる。いまは落語が記録として残っているものも多いが、それでも基本的に落語の芸というのは師匠から弟子えと口で教えられるものだ。師匠の高座を見て弟子がそれを覚える。そして自分なりにアレンジをする。その繰り返しによって古典落語なるものが継承されて行く。だからこそ古典落語というものを今でも面白く聞くことが出来るのだ。昔に話された噺というのは教科書ではあるが手本ではない。ただ引き写せばいいのではなくて、そこから学ばなければならないのだ。私は(もちろん)噺家ではないので、学ぶ必要もないのだが、このようなルーツや古典落語というものの性質を知っていると、今の噺家がそれらの噺をどのように消化し、アレンジしているのかを推察することが出来るようになる。
そのようなある意味ではマニアックな見方を出来るところが落語の深いところ。古典落語の面白いところであるのだと思う。そのような深い知識を持つ人でも、落語を初めて聞く人でも、どちらでも楽しめる、そんな噺を演じられる人こそが本当の名人なのだろう。落語のルーツともいえる天保の雰囲気を想像しながら、そんなことを思った。