終戦記念日に靖国神社へ


終戦から60年の8月15日、生まれて初めて靖国神社に行ってみることにする。戦後六十年ということでその戦争に関する映画をいろいろ見て、いろいろ考えて、その考えたことが私を漠然と終戦記念日靖国へ導いた。
予想通りではあるが、神社にたどり着く前から右翼団体街宣車靖国通りに止まっていて、紺や黒のつなぎを来た人たちが数人ずつの塊になって立っている。しかし、いつものようにマイクでがなりたてることはなく、いたって静かだった。それほどの物々しさを感じることも無く、境内へ。さすがに境内はすごい人で、「靖国神社のために」というビラや日の丸がかかれた団扇が配られていたり、“チャンネル桜”というケーブルテレビのブースがあったりする。
境内には本当に様々な人がいる。数人連れ立ってきているような若者が意外に多く、それ以外にも家族連れも結構いる。もちろん、戦争を実際に経験した世代は多く、ひとりで、夫婦で、仲間と、あるいは孫を連れてやってきて、参拝の列に並ぶ。今日は異常なほどの暑さで、こんな暑い中長時間並んで大丈夫なのかと慮るが、彼らは60年前の暑い夏を思い出しているのかもしれないなどと思う。

そんなことを思いながら、私は参拝者の列を外れ、脇から本殿に近づいて行った。折りしも時間は正午、スピーカーから流れる声が人々に戦没者への黙祷を求め、右翼団体のものらしい号令の声が響く。その声がやむと、人々は頭を下げて目を瞑り、境内は急に静かになった。その時は確かに人々の戦争で亡くなった人々への鎮魂の想いが高まり、辺りが平和の祈りで包まれたような気がした。私も名も知らぬ戦士たちの魂に敬意を表して少しの間だけ目を閉じた。

再び号令とスピーカーの声によって静寂は破られ、荘厳な雰囲気は霧散した。ざわつき始めた境内に右翼団体の歌声が響き、歌が終わると彼らは「天皇陛下万歳!」と唱えた。

そんな中、本殿の脇で一人の男性がハーモニカを吹き始めた。右翼の怒号にも似た声とは対照的にその音色はとても寂しげで、心に染み入るようだ。もちろん、右翼団体の人々も彼らなりに死んで行った人々に対する弔意を示しているのだろうが、私にはそのハーモニカの男性のやりかたのほうがしっくりと来たのだ。彼は人々に何かを訴えかけようという意図からではなく、ただ自分のためだけにそうしているように見えた。その男性が実際に戦地で戦った元兵士なのかはわからないが、彼の行動は本当に死んだ人の魂に対して何かをしようとしているもののように見えたのだ。

境内やその周りには軍服を着て(時には三八式歩兵銃を持って)軍歌を歌ったり、行進をしたりする人々がいた。彼らの行動も戦争を思い出し、その記憶を風化させないための作業だとは思うのだが、右翼団体と同じように人々に何かを訴えかけようという意図が強く感じられ、鎮魂という私の思う終戦記念日のあり方とはズレがあるような気がしてしまった。

実際に靖国神社に行ってみて思ったのは、これは天皇を中心とする神道という宗教の行事に他ならないということだ。靖国神社のウェブサイトなどを見てもわかるように、天皇=国のために働いている中で死んで行った人々が祭られているだけであり、戦争で亡くなった全ての人々が祭られているわけではない。
もちろん肉親や友人を悼むためにこの日、靖国神社にやってくる人々は数多くいるわけだけれど、その全ての人々が天皇のために死んだ英霊として死者を追悼したいと考えているのか。平和遺族会の人々のように靖国神社に祭られることに違和感を覚える人々もいるわけだから、この神道という一宗教の施設が追悼の中心となっているのには問題があるのではないかと思えてくる。そこにA級戦犯の合祀などの政治的に顕在化している問題以前の靖国神社そのもののあり方になにか違和感を感じた。
もちろん問題はそんなに単純ではない。たとえば、「靖国で会おう」という言葉とともに散って特攻隊員たち、私たちは靖国神社に祭るという以外にどのような方法で彼らの死に報いることが出来るのだろうか。宗教から離れた形で戦争で亡くなった人たちを追悼する施設を作ろうとしたとき、私たちは彼らの死にどのような意味を与え、どのような形で彼らの死に報いればいいのかという課題を突きつけられるのだ。
その答えは私にはまだわからない。

そんな思いにふけりながらの帰り道、靖国神社の裏にあった不ぞろいの石柱がなぜか心にしみた。

* 今月の「日本名画図鑑」では「戦後六十年・戦争と平和」と題して、六十年前に終わった戦争に関係する映画を取り上げ、考察しています。亡くなった人々にどう報いればいいのか、まさにその課題の答えを探しているところですので、よろしければご一読ください。
詳しくは http://www.cinema-today.net/magazine/meiga.html