生々しい心の傷跡『砕かれた神』

これは少年兵として海軍に志願し、ミッドウェー、マリアナ、レイテ沖の海鮮を経験し、ほとんど生存者のいなかった戦艦武蔵から奇跡的に生還し、復員した若者の戦後のおよそ半年間を綴った日記である。そこに描かれているのは、百姓としての日々の生活とやるせない想いである。天皇のためにという言葉に突き動かされて命を懸けてきたその天皇の変わり身、敵国といわれそう信じてやまなかったアメリカに対する敵意、そのアメリカにおもねる人々に対する軽蔑、死んだ戦友に対する想い、それらが織り交ぜられて、生々しく素晴らしい戦争の証言になっている。
特に面白いのは天皇に関する記述だ。復員した当初はまだ「天皇陛下」と呼び、控えめに「畏れおおいことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない」などと書いているのだが、9月30日になって天皇陛下マッカーサーを訪問した写真を見て、その卑屈さに衝撃を受け「おれにとっての“天皇陛下”はこの日に死んだ」と書いた。これ以降は天皇に対する攻撃的な姿勢を募らせ、マルクス主義的なほんの影響もあってか共産党に肩入れするような記述が増える。そして、戦時中は忠誠心を表していた「赤心」と共産党を意味する“赤”をもじって、今のおれこそ「赤心」の持ち主だとしゃれたりしている。しかし、天皇に対する敵愾心が納まってくると、そのような天皇を無批判に信じてしまった自分自身にも責任の一端があったと考えるようになる。この辺りは彼自身が自分が小学校出で頭がよくないなどと書いているのとは裏腹に、非常に考えられた意見なのである。そしていまだに天皇をありがたがる人々が多いのを見て苦言を呈しているのだ。
そして、彼は最初のうちは人のいうことや本に書いてあることを真に受ける傾向があったのだが、少しずつそれを自分の考えと対峙させて、考えるようにも変化している。戦争が終わってすぐの段階では虚脱状態にあったのが短期間でこれだけの卓見を得ることが出来るようになるというのは素晴らしいと想う。

そのような天皇に関すること意外にも、戦後すぐの日本の状況の証言として素晴らしいものがいくつも出てくる。彼は田舎にいて食料に困らないのだが、都会では配給が遅れているということが語られ、たびたび都会から買出しに来る人が登場したり、軍事物資を着服した人々のことが出てきたり、戦争が終わるとともにころりと態度を変える節操のない大人たちを冷笑したり、本当に教えられることが多いのだ。
戦争責任だとかいうことを難しく書いた本よりも、よっぽど戦争と戦後の意味がよくわかる。今の日本が抱える矛盾の多くは、戦争直後の数年間にその根をおろしたものなのだ。彼がいうように天皇が責任を取らないということ、それは人々の責任感をそぎ、それが人々の利己的な行動を助長した。その裏のからくりはこの本から見えては来ないが、それは別の本で読めばいい。
この時代を生きた人々の生の感覚はこの本でなければ味わうことが出来ない。

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