物語の源泉としての死『グラスホッパー』

鯨、蝉、槿という奇妙な名前、自殺させ屋、殺し屋、押し屋という奇妙な職業。それらに共通するのは人間ではないものの名前と、人を死に導く職業である。この物語はずっと死と隣接し続けて、まるでそこの見えない崖の淵を歩き続けているかのような緊張感に覆われている。
伊坂幸太郎はこれまでの作品でも確かに常に死というものを題材にしてきた。登場人物の誰かしらが大切な人の死を心に抱えているということは多かった。彼にとって死とは物語の源泉、まさに物語が湧き出る場所なのだろう。大切な人の死を抱えることでその人の特別な物語が始まる。彼はそのようにして物語を紡いできた。
その伊坂幸太郎が、死を導く人々を物語の中心に据えるとき、それはずっと物語が湧き出るその源にとどまり続ける。物語の時間は進み、次々と出来事がつながって、何かが展開している事は確かなのだが、それが先行きの見えない暗さを持っているのはそこから湧き出る物語たちが紡ぎだされず、彼らを死に導いた主人公たちの上にのしかかってくるからだろう。彼らが殺した人々の記憶に押しつぶされそうになるのは、彼らの死から始まる物語の重み故なのだ。
その中で鈴木だけが、妻を亡くした夫という伊坂幸太郎の物語のまっとうな担い手として現れる。だから物語は彼を中心に展開されるわけだが、伊坂幸太郎の小説の特徴のひとつは主人公よりも周囲のキャラクターの方が魅力的だという点にある。この物語で言えば、鯨や蝉が非常に魅力的なキャラクターで、読者は結局彼らに力点を置いて物語を負ってしまうことになる。だからこそ、この小説は物語が展開して行くのとは裏腹に、一向に先が見えない暗さを持ち続けているのだ。
私はそれも面白いやり方だと思う。伊坂幸太郎は自分の物語の出発点に常にある死というものの裏側を見始めたのだろうか。この作品に続いて書かれた小説は『死神の精度』という死神を題材にした小説らしい。それは引き続き人を死に導く存在を描いた作品であるだろう。だとするならば、彼は自分自身の物語を巻き戻すようにして小説を書き続けているということになる。死から生まれた物語の結末に当たる部分から書き始めて、徐々に始原たる死に近づいて行く。そのように彼の著作は書き連ねられている。
そんな風に考えると、この先の彼の作品がどのように展開して行くのかも楽しみになってくる。

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