本読みのバイブル『華氏四五一度』

これは本読みのバイブルである!
こんな風に読書日記を書くようになって、早々にこんな本に出会ったのはとてもうれしいことだ。トリュフォーの映画『華氏451』はすでに見ていて、その時は今ひとつよくわからない印象だったのだけれど、それもそのはず、この物語はあくまでも本の物語であって、本として読むことでしか味わうことの出来ない部分があるのだ。
物語は、ほとんどの書物が禁じられた時代、焚書係(ファイヤーマン)は禁じられた書物があるという通報を受けると、それを燃やしに駆けつける。主人公のモンターグもそんな焚書係のひとりだが、ある夜、隣に引っ越してきたクラリスという不思議な少女に出会い… というもの。
この本は本を読む悦びがどこにあるのかということを考えさせてくれる。この物語の世界では、大部分の本が禁止されるたのは権力者がそれを禁止したからではなく、まず人々が本を読まなくなったからであるという。もちろん、その背景には権力による人々を操作しようとする目論見があり、人々にものを考えさせないということが目的として掲げられていたわけだけれど、どちらにしても人々は本を読む事をやめたのだ。本を読むよりも体験型の映像メディアを見ることや、夜中に車を猛スピードで走らせることを選んだ。それはつまり、大衆をスペクタクルの虜にして、ものを考えないようにさせるということだ。それによって人々は世の中の本質的なことに目を向けなくなり、権力者は社会を操るのが容易になる。
そのようなスペクタクルによる大衆の操作はSFの世界だけの話ではない。現代はすでにその時代に入っていると言って間違いない。その意味では、マイケル・ムーアが自分の映画に『華氏911』とつけたのは非常に理にかなったことだった。彼が言おうとしたことは、ブッシュは何も考えていないし、そんなブッシュを担ぐ今の政権は大衆に何も考えて欲しくないということだ。つまり、現代はすでに『華氏四五一度』の時代に突入してしまっているということなのだ。
スペクタクルは大衆を白痴にする。本にももちろんスペクタクル的な要素はあるし、SFなどはその際たるものであるのだけれど、しかしそれでも本を読むには「頭を使う」必要がある。本にスペクタクル的な要素があるとしても、そのとき没頭する対象というのは本の場合にはほとんど読む側の想像力によっている。つまり、本を読む時には頭を使わなければそこに描かれている世界をイメージすることが出来ないけれど、映像を見る時はほとんど頭を使わないでいいということだ。映像を見ながら人が頭を使うのは、映像を送る側が頭を使うように仕向けた時か、そのような映像の力に負けずに考えようと意図した時だけなのだ。
マイケル・ムーアの話はともかくとしても、この小説に描かれた未来がやってくるのは本当にもう間もなくである。実際に禁書という強制措置が行われるとは考えにくいが、現在の巨大企業に支配された書籍に流通システムの中で、貴重な本がどんどん絶版になり、流通しなくなっていることは確かなのだ。書籍の現物がなければ、情報も流通しにくくなり、その書籍は実質的に手の届かない誰にも知られないものになってしまう。忘却という名の禁止、それは実際に進行しつつあるのだ。
だから、この『華氏四五一度』が語っているように、本読みは貴重な本を記憶にとどめて、その情報を人々に伝えなければならない。そして、考え続けなければいけない。
そう考えると、私がこんな駄文を人目にさらしているのにも意味があるように思えてくるものだ。だから、私は皆さんにまずこの『華氏四五一度』を読んでもらって、こんな読むに堪えない文章を読ませている私自身の言い訳としたい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150401063/hibikoreeiga-22


と、書いたら、はてなダイアリーの一冊百選で、E.A.Poe(id:EdgarPoe)さんという人が、ちょうど『華氏四五一度』について書いていました。ふむふむ、なるほどね。画面は見にくいけど、書いてあることはわかりやすいなぁ。
http://d.hatena.ne.jp/EdgarPoe/20050222
はてなダイアリーの一冊百選ってなかなか面白そうです。はてなダイアリー市民になったら、執筆希望リストに入ってみようかな。

2/23の「ほぼ日刊 日々是映画」
フィリップ・ド・ブロカ監督『リオの男』 出演:ジャン=ポール・ベルモンドフランソワーズ・ドルレアック
http://www.cinema-today.net/0502/23p.html