『順列都市』 グレッグ・イーガン著 ハヤカワ文庫 1999年

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)2045年のオーストラリア、ポール・ダラムは自分の脳を完全にシュミレートした<コピー>がなぜすぐにその世界から抜け出そうとするのかを実験によって観察していた。2050年、同じくオーストラリア、マリア・デルカは自然界をモデル化したオートヴァースで分子モデルをいじり、熱中すると同時に無駄遣いしているという後ろめたさを感じていた… 20世紀半ばのオーストラリアを舞台に、人間をコンピュータ上で完全にシュミレートする<コピー>をめぐって繰り広げられる壮大な叙事詩、<コピー>によって人間は不死を手に入れることが出来るのか?
90年代のSF界を代表する作家と呼ばれるグレッグ・イーガン、確かにこの『順列都市』をはじめとして、彼は90年代に強いインパクトを与える作品を次々発表した。量子力学ナノテクノロジーという最先端のテクノロジー理論を駆使して、独特な未来像を描き、人々を引き込む。大ヒットした映画『マトリックス』の世界もグレッグ・イーガンによって先取りされていたと言っても大げさではあるまい。
そのようにして彼が90年代のSF界の寵児という風に呼ばれるときに常に想起されるのは80年代に同じように時代を象徴する存在となったウィリアム・ギブスンである。ウィリアム・ギブスンの代表作といえば1984年発表の『ニュー・ロマンサー』であり、この作品によってサイバー・パンクというSFのジャンルが一気にSF会の正面に躍り出た。そして80年代のSFといえばサイバーパンクというイメージを作り出したのだ。イーガンは、このギブスンと同じようにSF界にひとつの大きな流れをもたらしたということが出来るだろう。
そして、このギブスン(とサイバーパンク)とイーガンは決して無関係ではない。サイバーパンクはコンピュータが着実に人間の生活に入り込んで行った80年代に人間とコンピュータを結線(wired)した。それまでは人間は物理的に宇宙を旅したりしていたのが、サイバーパンクによって物理的にはひとところにとどまったままでデジタル化された世界を旅することが出来るようになったわけだ。これは紛れもない物理的世界とディジタル世界の結線である。
それからおよそ10年後、グレッグ・イーガンは今度はそのように結線された人間とコンピュータの境界線を探るということをはじめる。結線され、接続されたことによってあいまいになった人間と機械の境界線、この作品が捜し求めているものはそれである。

前置きが長くなってしまったが、この作品でそれを具体的に考えるなら、<コピー>はどこまで人間なのか。ということである。主人公のポール・ダラムは<コピー>によって人間の脳が上書きされてしまったという存在である。つまり、自分の脳のシュミレーションとして生まれた<コピー>がシュミレーションを経た後にもともとの脳を乗っ取ってしまうのである。それが可能ならば、人間の脳とコンピュータの差などないに等しい。コンピュータは人間の脳の代わりに活動が出来るということを意味するからだ。人間のコンピュータのもっとも大きな違いは人間は肉体を持つということだと思うが、意識のレベル(あるいは知覚のレベル)においてならコンピュータも肉体を持つことが出来る。シュミレートされた脳が持つシュミレートされた肉体を持つのだ(脳、あるいはコンピュータによる近くのレベルにおいては両者の肉体に差はないように思われる)。
それではいったい人間とコンピュータの境界はどこにあるのか? この作品はわれわれにそう問いかけてくる。そして、その問いかけに答えて、その境界を探って行くと、それは他のあらゆる境界と同じようにぼやけてゆき、境界のように見えたものがグレーゾーンに過ぎないことに気づいてしまう。そして、その境界を見つけようとそのグレーゾーンに近づけば近づくほどそこは平板で連続した空間に見えてきてしまうのだ。

(ここから先は読んでいないとわかりにくいと思いますが、我慢してください)
私が注目したのは、この作品で描かれる順列都市が高層建築によって構成されているということだ。この順列都市は文字通り無限の領域を持つことが出来るし、そこで暮らす人間(<コピー>)も無限に速い速度で移動することが出来るのだから、本当は高い建物など必要ではなく、広大な平原にポツリポツリと大邸宅があってもいいはずなのだ。しかし、グレッグ・イーガンはこの都市を上へ上へと伸びて行くイメージのものにした。
これが意味するのは、自然に対する恐怖なのではないかと私は思うのだ。人が建物を建てるのは重力に抗うためだという説がある。重力に抗って、高い建物を建てることで人間は自然を征服したという感覚を得ることが出来る。そのために古代の人々はドルメンのような石の構造物を建てたというのだ(多分隈研吾の『新・建築入門』で読んだ)。この作品の順列都市も実はそのような重力/自然の克服という欲求によって上へ上へと伸びて行っているのではないだろうか。
それは、この順列都市を含むシュミレーション世界には自然の法則というモノが存在しないからである。この世界にとって自然というのは計算の埒外にあるもの、決して計算が立たないものである。したがって、純粋な計算によって存在を保証されている<コピー>は自分の根底を揺るがすものとしての自然を潜在的に恐れるのだ。

ここから先は、さらにネタばれも含んで行くので、これから読もうという人は読まないでおいてください
そして、このシュミレーション世界のサブセットして存在するオートヴァース世界である惑星ランバートは自然がモデル化されたものである。そこのは様々な不確定要素が存在し、それが世界を多様にして行く。そして、この物語の最後にそのオートヴァースがシュミレーションの側を侵食して行くというのは、実は自然の復権なのだ。


サイバーパンクによってコンピュータとwireされたSF的人間はこの結末によって再びunwireされる。コンピュータと人間の間の明確な境界は示されないけれど、その間を結んでいた意味づけは断ち切られ、その境界を越えることは物理的に不可能であるということを知る。その間は果てしなく広いから、それを飛び越えようとしても、人間は重力によって引き摺り下ろされてしまうのだ。


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