『オーデュボンの祈り』

不思議なリアリズム
この物語の中心にあるのは荻島という不思議な島、そしてその島にやってきたよそ者の伊藤であるわけだが、その島の中心的な存在というべきしゃべるカカシの優午が殺され、その謎を解くというのがストーリーの中心になる。しかしよく考えてみれば、優午はカカシだからそれは殺人事件ではなく、警察官の日比野の言うように器物損壊でしかないわけだが、優午がしゃべるとうことでそれは殺“人”事件として扱われる。その謎解きはなかなか手が込んでいて面白く、ミステリーとして非常に魅力的だ。この作品は伊坂幸太郎新潮ミステリー倶楽部賞を受賞したデビュー作で、だから当然ミステリーなのだけれど、この島の不思議な感じからはミステリーというよりはファンタジーというイメージがピタリとくるのに、ストーリーを追って行くとしっかりとミステリーになっているところにこの作家の力を感じる。
だがやはり、魅力的なのはこの島の不思議な世界観である。未来を見ることが出来るしゃべるカカシの優午という存在があまりに強烈で、そればかりに目が行ってしまいがちだが、この島はそれこそ不思議なことだらけである。100年も孤立しているのに何故警察官がいるのかとか、伊藤が指摘するとおりどうして電気が通っているのかとか、疑問を上げれば切りがない。そして、この物語ではその疑問をいちいち解決しない。疑問は解決されないのだが、読者はなんとなくそのことを受け入れてしまう。伊藤は繰り返しこの島に“リアリティ”が欠けているというが、その現実を受け入れてしまうということは間違いなくそれがリアルであるということであり、それが意味するのはこの島にリアリティがかけているということではなく、別のリアリティが存在しているということだ。
私がそのようなリアリティのあり方を読み取りながら感じたのは、これが“マジック・リアリズム”に近いものを持っているということだ。“マジック・リアリズム”といえば主に中南米に特徴的な物語形式で、非現実的なことを当たり前の現実として物語を構築し、読者を幻惑してそれをある種の現実として体験させてしまうという手法だ。この『オーデュボンの祈り』でいえば「桜」の存在などは非常にマジック・リアリズム的であると思う。しかし、この作品は荻島という世界を常に外の世界と対比し続けているためにマジック・リアリズムとは違っている。それがひとつのリアル(現実)として作品世界を覆ってしまうのではなく、その世界は伊藤や静香や読者を含めた現実世界に別のリアルとして挿入されるに過ぎないのだ。
だから読者はふっと別の世界に迷い込んだような感覚を覚える。現実と接続された別の現実としての別世界、それはある種のパラレルワールドであり、ありえなかった現在であり、ノスタルジーの対象である。この荻島がまったく知らない世界であるにもかかわらずどこかノスタルジーを感じさせるのは、それがありえなかった現在、過去から見た実現しなかった未来であるからだ。「もしこうだったら」という空想が生み出した別の現実、この作品に描かれている世界とはそのような世界であるから、その中心に未来を見通せるしゃべるカカシ優午がいるのは当たり前のことなのだと私は思う。優午とはそのような「ありえなかった現在」を知る存在なのだから。

備考
借り物
概要
見知らぬ部屋で目を覚ました伊藤はその場所が荻島という島だと知る。その島は100年以上にもわたって外との交流のない島で、反対のことしかしゃべらない元画家やしゃべるカカシがいた。伊藤は自暴自棄でコンビニ強盗をして失敗し、パトカーから逃げ出したところをその島で唯一外との商売をする轟という男に救われたのだった。伊藤は未来を見ることが出来るしゃべるカカシの優午の助言に従って街に帰ることはせず、島にとどまることにしたのだが、島では次々と奇妙な事件が起こる…
リンク
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101250219/hibikoreeiga-22


5/29の「ほぼ日刊 日々是映画」

クリント・イーストウッド監督『ミスティック・リバー
出演:ショーン・ペンティム・ロビンスケヴィン・ベーコンローレンス・フィッシュバーンマーシャ・ゲイ・ハーデン
http://www.cinema-today.net/0505/29p.html