純物語小説『ラッシュライフ』

まずは平行した時間の流れの中で、いくつかの出来事が置き、それぞれの流れの主人公のキャラクターが明らかになって行くという展開、それぞれが基本的には独立しているのだけれど、時折それらが交錯し、影響しあっているように見える。
それだけならばよくある群像劇。どこかでそれらの物語が合流し、意外な物語を紡ぎだし、クライマックスに向けて加速するという展開が予想できる。しかし、伊坂幸太郎は違う。彼はただ平行した時間の流れの中で複数の物語を紡いでいるわけではない。平行に進んでいると思って読んでいると、少しずつ少しずつそこに齟齬を感じるようになる。そのような仕掛けがなされている。それ以上はネタばれになってせっかくの傑作の面白みが半減してしまうので書かないが、とにかくいえるのは、これはミステリとして非常に優れた作品であると同時に、単なるミステリーではないということ。物語というものの本質を突いた純文学ならぬ純物語であるということだ。
物語というものを愛してやまない私は、この伊坂幸太郎はまったくの天才だと思う。この人の紡ぐ物語には魔力がある。デビュー作となった『オーデュボンの祈り(id:kn2:20050530)』も魅力的だったけれど、そこにはなにか空想的なものが多分に紛れ込んでいた。しかしこの作品ではその空想的な部分を排除し、徹底的にリアリティにこだわり、にもかかわらず魔術的な世界観を描き出している。
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この物語の5つのエピソードの時間は最初は平行しているように見える。それをつなぐのは野良犬のような柴犬、宝くじ、展望台、エッシャーの絵、バラバラ殺人、などである。そしてそのエピソードのひとつとして人間をバラバラにする現場が登場し、他のエピソード(黒澤、京子と青山)においてもバラバラの死体が登場することで、エピソード同士の結びつきが強まって行く。そして、少しずつ物語り同士の関連が見えてくるのだが、同時に何かもやもやした感じを感じ始めてしまうのだ。それは、それぞれのエピソードの時間の関係性に矛盾があるのではないかということである。別のエピソードで語られた同じ出来事同士の前後関係がどうもおかしいのではないかという疑問である。結局このことは物語の最後まで語られることはなく、物語の埒外にある問題であるかのように扱われる。言及があると知れば、エッシャーの絵によってほのめかされるだけである。が、もちろんこの物語を読んだ誰もがその違和感を感じるように仕組まれているのだ。そしてこの物語自体がエッシャーのだまし絵なのだということに気づくのだ。
私は、物語を愛してやまない。だから面白い物語に出会うと、この物語がずっと終わらずに永遠に続けばいいのにと願う。そうしてどんどん長い物語を求めるのだが、もちろんこの世に永遠に終わらない物語などない。しかし、伊坂幸太郎はこの小説でエッシャーのだまし絵の階段のように永遠に終わらない物語を描いたのだ。それは文庫版の後書きに池上冬樹が書いたようにタランティーノの『パルプフィクション』に似てはいるが、それは同じではない。伊坂幸太郎の物語は永遠に終わらないが繰り返しではないのだ。それはエッシャーの絵の兵士たちが永遠に上り続けるのと同じように永遠に上へ上へと展開する螺旋を描いているのだ。エッシャーの絵も私たちの目から見れば同じところをぐるぐる回っているだけに見えるが、それを上っている当の兵士たちにしてみれば永遠に続く螺旋階段を上っていることになるのだ。
時間があったら、全ての断章を解析して、そのつながりを解明してみたいという欲求に駆られる。
もし出来たら、ここに載せます。