SFを越えた名作『夜の大海の中で』

 地球外生命体と接触するというのはSFの王道中の王道、SFといえば、宇宙人との遭遇と言っても過言ではないほどである。そして、この小説もその地球外生命体との接触を描いた小説であるわけだが、しかしいわゆる宇宙人ものとはまったく違っている。主人公のナイジェルは彗星と思われる物体が地球に衝突するのを回避するために、そこに接近するのだが、実はそれが打ち捨てられた宇宙船(イカルス)であるということを知る。それは、地球外生命体の存在を意味するものの、地球外生命体自体の情報はまったく得ることが出来ないし、結局その宇宙船は破壊せざるを得ず、何の情報も得ることが出来ないのだ。そして、15年の歳月がたち、ナイジェルは再び地球外生命体と接触する機会を得る。
 しかし、結局この小説に地球外生命体は出てこないのだ。物理的に登場しないということはもちろん、その生命体と交信したり、彼らのメッセージが伝えられたりということもない。ナイジェルと地球人たちが接触するのは彼らの残した遺物や彼らが作った機械だけなのである。
 そのような地球外生命体が登場しないエイリアンものから浮かび上がってくるのは地球人の姿である。地球外生命体、明らかに自分たちより高度の文明を持った宇宙人に対してどのような態度で臨むのか、その態度から地球人というものの姿が見えてくる。政治家たちはもちろんそれらが地球を侵略してくる可能性を考え、防衛策をとろうとする。科学者たちはそこに何かの新しい可能性を求めて調査を続けようとする。そしてさらに、この小説を面白くしているのは“新しい子”という宗教の存在だ。宗教と宇宙人という一見つながりそうもないものをつなげ、また別の地球人の姿を見せる。
 人間とは何と不思議な生き物なのか。なんと理不尽で利己的な生き物なのだろうか。この物語を読みながら感じるのはそのようなことだ。しかし、それによって地球人が地球外生命体(高度に発達した文明人)よりも劣っているということを証明するわけではない。グレゴリイ・ベンフォードがすごいと思うのは、そのような物語を詩的な余韻を織り交ぜながら語るという点だ。この詩的な物語はそれ自体が人間の素晴らしさを体現してもいる。人間が対話することになる地球外生命体の作った機械にはない“本質”がそこにあることをひそやかに証明しているのだ。
 この小説がSFとして魅力に満ち溢れているかどうかというのは微妙なところだ。しかし、SFである以前にこれが文学であることを考えると、この小説は非常に素晴らしい小説だと私は思うのだ。詩情に溢れ、しかしワクワクするような冒険に溢れ、魅力的な人物たちが登場し、イマジネーションにも富んでいる。SFがSFというジャンルを越えて文学的な価値を持つようになるには、このような作品が数多く生まれなければならないのではないかと思った。

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