純文学の読み心地『重力ピエロ』

母親がレイプされた結果生まれた“春”、かたっくるしく言えば、その春の存在の苦悩をめぐる物語ということになるのだろう。それは母親と祖父との不義の結果生まれた謙作を主人公にした志賀直哉の『暗夜行路』を思い出させる。謙作は春よりもはるかに鬱屈としていて、苦悩という言葉がピタリと来る。それに比べると春という人物はあまりにも楽観的過ぎるという気もする。それはひとつには時代性の違いということもあろうが、もっと重要なのは父親のあり方である。この物語で一番重要だと思うのは父親の存在だ。レイプの結果生まれることになった息子、血のつながっていない息子を受け入れる父親、その父親こそがこの物語の真の主役なのではないか。
この作品が『暗夜行路』と決定的に違うのはこの父の存在である。『暗夜行路』では父親は息子を懸命に遠ざける。もちろんそこにはその父親が自分自身の父親であるという複雑な事情があり、その息子こそが自分が裏切られたことの証明であるという理由もあるのだろう。しかし、それもこれも息子には責任のないことである。自分に責任のないことによって罰せられるという理不尽な体験をさせないために、父親は血のつながっていない息子でも受け入れなければならないのか。このような疑問が『暗夜行路』とこの『重力ピエロ』の間に横たわる。
この父親によって救われる春が泉水に頼るのは、自分と父親の間のこの儚い絆にすがるためである。兄を介して父親と血でつながっている春は兄の存在がどうしても重要なのだ。兄がいなくなることで自分を救ってくれる父親がいなくなってしまうのではないかと怖れるのだ。そこには血のつながり、家族のつながり、人間のつながりの間の微妙な関係がある。春の行動の理由を明確に言葉で説明することは出来ないが、彼はその行為によって家族の、そして人間のつながりを確認したかったのではないか。

ただミステリーとしては今ひとつ弱い。謎解きが単純すぎるし、偶然の一致があまりにも多すぎる。これだけの長さの物語をひとつのミステリーとして読ませるには、もっと多くの可能性ともっと多くのトリックがなければならないのではないか。この作品はミステリーファン以外の読者をもつかんだなどと宣伝されるが、それは裏を返せばミステリーであることを前面に押し出して売り出すには弱かったということもあるのではないか。
もちろん作品としては面白い。ガンジーバタイユをもちだし、遺伝子科学の研究成果をミステリーと絡める辺りは知的好奇心を刺激するし、それぞれの登場人物は魅力的だ。魅力的な登場人物が語り手ではないというのは伊坂幸太郎のひとつの形である。この作品でも魅力的なのは春と父親であって語り手の泉水ではない。そして、これは伊坂幸太郎の作品の面白さの秘密でもある。語り手よりもその周囲の人物が魅力的であることによって読者はその世界に魅了されるのだろう。だから私は伊坂幸太郎の作品を次から次へと読んでしまう。

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