機械という他者との対決『大いなる天上の河』

グレゴリイ・ベンフォードによる外宇宙を舞台にしたSF作品。場所は明らかではないが、人間と機械が対立する世界、人間は機械の勢力に圧され、根拠地を破壊され、さすらうことを運命づけられるようになってしまった。その集団の中のひとりキリーンが語り手となって人間の運命を描く。
この作品は「夜の大海の中で」「星々の海を越えて」のシリーズの第3弾ということになっているが、時代も場所もまったく違うところで展開される物語だ。共通するのは生物と機械の対立という大枠だけ。しかし、この大枠こそがこの物語でもっとも重要な点であることは明らかだ。それは、多くのSFが予言しているような機械が意識を持つことで人間に反逆するという物語ではなく、機械と人間がそもそもふたつの種族でしかないのではないかという可能性だ。人間の視点から見れば機械は人間が作ったものであり、人間を模倣したものでしかないが、それはもしかしたら有機生命から無機生命へという進化のひとつの形態でしかないのかもしれないという可能性もある。こんなことを欠いてもまったく説得力はないが、ベンフォードの精緻な描写にはそれを説得する力がある。
それは、この物語(「夜の大海の中で」も含めて)に登場する人間はみな少なからず機械化されているのだ。この「大いなる天上の河」に登場する人々も常に装具をはめ、頭にはソケットが挿入され、神経回路の一部はコンピュータによって制御されているようだ。そこでは人間と機械の境界は、この人々が考えるほどには明確ではなくなっている。人々は機械を敵視し、機械をまったく理解できないものと捉えているが、自分もまた部分的には機械であるのだ。私たちの目から見れば、この人々は人間よりもむしろ機械に近いのかもしれないと思うことすらある。ベンフォードはそのような曖昧さを作品に込めることで私たちに考えさせる。
そして、これは単純な「他者」の物語の繰り返しでもある。機械という他者と対決する人間の物語、戦いは常に「他者」との間で起きる。そして「われわれ」と「他者」との境界は意外に脆いもので、明確ではないものだ。そのような「他者」どのように対処するのか、それはシェイクスピアの時代から文学が果てしなくわれわれに投げかけてきた疑問だ。その相手が原住民であっても、機械であっても、エイリアンであっても基本的には同じ疑問なのだ。