漫画のスピード感『陽気なギャングが地球を回す』

新書版で出ているだけにかなりライトな読み心地である。相変わらずキャラクター作りが非常にうまく、特に成瀬のキャラクターは秀逸だ。そして、様々な視点からひとつの物語に切り込んでいく語り方もスピード感があって面白い。伊坂幸太郎はサスペンスを書きながら、サスペンスを越えた何かをも伝えうるものを書く作家だが、この作品に限っては純粋なサスペンス、アクションと言ってもいいほどに勢いのアルサスペンス作品を書いている。だから、重みとか深みとかいうモノはあまりなく、とにかく一気に読んであー面白かったで終わり。そんな作品である。
その分、作品全体が漫画っぽいという感じもする。別に漫画っぽいのがいけないというわけではないし、この作品の登場人物に絵をあてようとするとなんとなく浦沢直樹の絵が浮かんでくるようで、漫画にしたら面白そうだなと感じる。しかし、あまりに漫画っぽい作品というのは小説にする意味というか、読者が想像で埋め合わせる余白が少ないという意味で面白みにかける感がある。文字だけで伝わってくる物語を読む面白みのひとつは文字だけでは伝えられない空白を想像力によって埋めることがあるはずだ。この作品はその想像力を働かせる余地が少なく、ただ物語りに乗っかって進んでいるという感じがしてしまうのだ。
もちろんすごく面白い作品だ。だからこそもっとゆっくり味わいたかったというだけのことなのだ。

スバ食いてぇなぁ…『沖縄やぎ地獄』

筆者は沖縄といえば「ビーチ、リゾート…」などということを書いているが、私にとっては沖縄といえばなんと言ってもまず食べ物!そして酒!である。だから、この筆者とはとても意見が合う。私も大学生の時に始めて沖縄に行き、その時食べた山羊汁の臭さにやられたクチだから『沖縄やぎ地獄』という題名だけで「おぉっ!」と思ってしまうのだ。そんなこんなで読み始めてみると、この語り口のよさと、実はどうでもいいような雑学のオンパレードと、実用的なグルメ情報と、時々はためになる情報とが渾然一体となって、それこそまさにチャンプルー、沖縄をめぐるエッセイがチャンプルー状態(汁気が多いからイリチー状態かな)でいい感じに調理されて出されるという感じなのだ。
沖縄に行ったことがある人は、今度行ったらこれを食べたりあれを食べたりという妄想を膨らませながらよだれをズルリとすすり、行ったことがない人は、へー沖縄ってそんなにおいしいものがあるんだとやはりよだれをズルリとすする。というとっても罪な本である。
一番圧巻といえるのは、なんと言ってもスバ(沖縄そば)に関する記述だろう。なんとなく他のそばと違うしうまいなぁと思って食べていただけの沖縄そばが実はラーメンと同じ原料!!だとか、トリビアの泉だったら満へーな感じの情報も盛りだくさんで、とにかくスバが食べたくなるのだ。
この筆者(と家族)のようにバカバカは食べられないけれど、沖縄に行くならやっぱり少しは胃を拡張していかないとねいう気にさせる沖縄グルメ読み物である。

あ、一部はネットでも見ることが出来ます。
http://www.satonao.com/publish/okinawa.html

純文学の読み心地『重力ピエロ』

母親がレイプされた結果生まれた“春”、かたっくるしく言えば、その春の存在の苦悩をめぐる物語ということになるのだろう。それは母親と祖父との不義の結果生まれた謙作を主人公にした志賀直哉の『暗夜行路』を思い出させる。謙作は春よりもはるかに鬱屈としていて、苦悩という言葉がピタリと来る。それに比べると春という人物はあまりにも楽観的過ぎるという気もする。それはひとつには時代性の違いということもあろうが、もっと重要なのは父親のあり方である。この物語で一番重要だと思うのは父親の存在だ。レイプの結果生まれることになった息子、血のつながっていない息子を受け入れる父親、その父親こそがこの物語の真の主役なのではないか。
この作品が『暗夜行路』と決定的に違うのはこの父の存在である。『暗夜行路』では父親は息子を懸命に遠ざける。もちろんそこにはその父親が自分自身の父親であるという複雑な事情があり、その息子こそが自分が裏切られたことの証明であるという理由もあるのだろう。しかし、それもこれも息子には責任のないことである。自分に責任のないことによって罰せられるという理不尽な体験をさせないために、父親は血のつながっていない息子でも受け入れなければならないのか。このような疑問が『暗夜行路』とこの『重力ピエロ』の間に横たわる。
この父親によって救われる春が泉水に頼るのは、自分と父親の間のこの儚い絆にすがるためである。兄を介して父親と血でつながっている春は兄の存在がどうしても重要なのだ。兄がいなくなることで自分を救ってくれる父親がいなくなってしまうのではないかと怖れるのだ。そこには血のつながり、家族のつながり、人間のつながりの間の微妙な関係がある。春の行動の理由を明確に言葉で説明することは出来ないが、彼はその行為によって家族の、そして人間のつながりを確認したかったのではないか。

ただミステリーとしては今ひとつ弱い。謎解きが単純すぎるし、偶然の一致があまりにも多すぎる。これだけの長さの物語をひとつのミステリーとして読ませるには、もっと多くの可能性ともっと多くのトリックがなければならないのではないか。この作品はミステリーファン以外の読者をもつかんだなどと宣伝されるが、それは裏を返せばミステリーであることを前面に押し出して売り出すには弱かったということもあるのではないか。
もちろん作品としては面白い。ガンジーバタイユをもちだし、遺伝子科学の研究成果をミステリーと絡める辺りは知的好奇心を刺激するし、それぞれの登場人物は魅力的だ。魅力的な登場人物が語り手ではないというのは伊坂幸太郎のひとつの形である。この作品でも魅力的なのは春と父親であって語り手の泉水ではない。そして、これは伊坂幸太郎の作品の面白さの秘密でもある。語り手よりもその周囲の人物が魅力的であることによって読者はその世界に魅了されるのだろう。だから私は伊坂幸太郎の作品を次から次へと読んでしまう。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4104596019/hibikoreeiga-22

インドカレーへの渇望


なんだかずいぶんカレーを食べていないような気がして(多分1週間くらいだと思うけど…)、今日はどうしてもカレー!と決めて、やはりナンステーションへ。すっかり昼休みも終わった時間に行ったせいか、店はガラガラ、入ったときは客は私ひとりでした。そのあと何組か入ってきて、帰りにはテラス席で女子高生がナンにキーマカレーを乗っけたナンドック(って名前だったと思う)をパクパクと食べていました。のんびりしていそうで意外と経営努力をしているナンステーション、夏ということでソフトクリームやかき氷なんてメニューも登場。夏休みのシモキタの穴場スポットになるかも(ならないかも)…
ちなみに今日もまた、スパイシーマトンを頼んでしまいました。なんだかこの間より辛かったような気が… 夏仕様でしょうか?

SFファンなら…『オルタード・カーボン』

人間の個性/アイデンティティがスタックと呼ばれる記憶素子に詰め込まれ、それが脳に接続される。そのスタックを入れ替えれば、スリーブと呼ばれる肉体を代えても人格は変化しない。そんな未来世界の設定がまず面白い。脳移植などによって不死の肉体を手に入れるというアイデアはSFのひとつの伝統であり、様々な方法が考えられてきた(一番オーソドックスなのは、脳移植用の体細胞クローンを作るというもの)がこの作品は、そのようなアイデアの中でもオリジナリティがあり、しかも面白い。
人間の精神と肉体、その完全な乖離がもたらす現在とはまったく異なった価値観、それでも人はもともとの肉体に固執する。そして、その固執に根拠を与えるかのように、人間の肉体の間には精神では把握しきれない感覚のようなものがある。この物語の主人公であるタケシ・コヴァッチはそのような精神と肉体の間をさまよう。精神と肉体は物理的に完全に切り離されてしまったにもかかわらず、全てを精神でコントロールすることは出来ないのだ。この作品は一貫してそのタケシの一人称で語られるわけだが、その一人称とはタケシの精神の一人称であり、肉体が感じることはまるで他人の感覚であるかのように語られるのだ。
読者はその未知の世界をタケシとともにさまよいながら、その世界の感覚をつかんで行く。この作品のミステリの謎解き事態がこの世界全体のシステムの謎解きにもつながって行くことで、この作品を体験するということが、この作品が前提としている世界を体験することと等しくなっていく。
だから、このような非常にSF的な世界に興味がある人ならば、ぐんぐんと作品世界に引き込まれていくことになるだろう。しかし、その前提にあるのはコンピュータと人間の境界を無化したサイバーパンク的なものである。だから、ウィリアム・ギブソンなりグレッグ・イーガンなりに親しんで、サイバーパンクという世界を感覚的に捉えている人でないと、すんなりと物語には入っていけないのかもしれないとも思う。

フィリップ・K・ディック賞を受賞したらしいが、確かにこの作品を始めとしたサイバーパンクの流れの根源にはフィリップ・K・ディックがいる。この作品自体はフィリップ・K・ディックの作品とは違って明らかなエンターテインメント作品だが、映画化されたら似たような感じの映画が出来そうな共通する世界像があるようにも思える。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757211295/hibikoreeiga-22